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自己成長というワードの気持ち悪さの正体

コラム

「自己成長したい!」

これは就活におけるNGワードの一つだ。この言葉を志望動機に言ったらアウトである。

なぜなら成長できない仕事などないからだ。「自己成長したい!」だけでは、志望理由にはならないのである。

さて、就活の話題は別として、自己成長したいというモチべーションについて書いていこうと思う。

「自己成長」というワードを使う気持ち悪さ

「自己成長」。このワードに、一度でも「気持ち悪さ」を感じたこのはないだろうか。

ここで言う「自己成長」というのは、他人に向けて

自己成長したいんだよね!

とアピールしている人のことを指す。

自分の心の中で成長したいと思うのはかまわない。また、誰かに質問された答えとして発言するのは問題ないだろう。

でも、もし自ら進んで「自己成長!自己成長!」と他人に表現する人は、なぜそれをわざわざアピールする必要があるのか。私は正直、気持ち悪いと思ってしまうことがある。

この気持ち悪さの正体は何だろうか。私が考える仮説は、「自己成長!」と言っている人の「うさんくささ」だ。

その「うさんくささ」は、 そう言っている人の行動が中途半端であることに起因するのではないだろうか。

違う言葉で表現すると、言ってることとやっていることの差が大きいことへの違和感がその正体だ。

例えば、こういう人は「自己成長」したいと言いつつも、あまり努力しているように見えない。

たしかに、自己成長と言う人は影で努力しているのかもしれない。

しかし、「自己成長」したいとまわりに発信する必要は果たしてあるのだろうか。なぜ、「自己成長」という言葉を言う必要がないのに発信してしまうのか。

それは、どこかで「自分の成長を認めてもらいたい」という願望があるからだ。

本当に「自己成長」したいという人は他人など気にせず、その言葉を不必要に言わない。

そうせずとも、「成長したい」という意志がその人の「行動」から伝わってくるものだ。

イチローが自己成長したいと言っても違和感はない

一方で、「自己成長」という言葉を表にせずともそれを実践している人は多くいる。

その典型が、日米で数々の伝説を残した「イチロー氏」だ。彼のモチベーションは、自己成長にある。

その成長したいと思う分野は、彼の場合は「野球」だ。ただ彼の場合は、それに加えて、「人間性」においても成長したいという想いが伝わってくる。

イチロー氏は「成長したい」という言葉こそ頻繫に使わないが、彼の発言からは、「もっとうまくなりたい」「もっと良くなりたい」というモチベーションがあることが分かる。

そんな彼が「自己成長」という言葉を言っても、なんら違和感はないはずだ。偉大な実績を残しているからこそ説得力があるためだ。

また、イチロー氏ほどの結果を残していなくとも、「目標」とそのための「行動」にギャップがない人は、あなたのまわりにもいるだろう。

このような言葉と行動が一致している人が「成長」したいと言ったなら、そこに違和感は感じないはずだ。

「自己成長」という言葉を使うイタイやつにならない2つの方法

ここまで考えたことから、次の2つを提案したい。

方法1 安易に「自己成長」という言葉を使わない

「目標」と「行動」に過度のギャップがある人が「自己成長」という言葉を使うと、高確率で聞いている人を不快にさせる。

それを聞いて喜ぶのは、自己啓発やキャリアアップのためのセミナーや商材を売りたいセールスマンだけだろう。

だから、安易に「自己成長」というワードを使うのは控えた方がいい。

使うにしても、自分が使うのではなく、相手に何かを売りたい時などにとどめたい。

例えば、どんなにダメな商品だとしても、「これを使えば成長できますよ!」とプレゼンすれば、何百人に一人は買ってくれるかもしれない。

もし仮に純粋に「自己成長したい」という思いが湧いてきたら、それはそれで喜ばしいことだ。

しかし、それは他人に言うのではなく、自分の心の中にとどめおきたい。

方法2「成長」という言葉の代わりに「極めたい」を使う

成長という言葉はあいまいだ。

あなたが電車に乗れるようになったのも、できない頃と比べると成長したと言える。

また、「嫌だなと思いながらも仕事をたんたんとこなせるようなる」ということも、捉え方次第によっては成長と言えなくもない。

つまり、成長とは捉える人の主観によってどうにでも捉えられる、変化しうるということだ。

このあいまいさが、その言葉を使う側と聞く側での感じ方の違いにつながると思う。

だからこそ、成長ではなく「極める」という言葉を使うといいと考える。

その理由は次の通りだ。

「極める」という言葉を使うにはハードルが高い

極めるという言葉を使うのは、成長という言葉と比べるとかなりハードルが高い。

アルファベットも書けないのに、「俺、英語を極めたいんだよね」なんて言う人はゼロに近い。

つまり、「極めたい」という言葉は、ある程度の行動や結果が伴っていないと使いづらいのだ。

実際に、極めたいという言葉は、行動が伴っていない時に使うと結構恥ずかしい。

私自身も、ほぼ使ったことがない。「極めたい」と言うなんて、相当な覚悟がないと言えないのではないだろうか。

もちろん、「成長」という言葉を使う時にも、「行動が伴わない時の恥ずかしさ」があるはずである。

しかし、成長というワードは、主観的にどうとでも定義できることから、行動が伴わない恥ずかしさを感じづらい。

行動が伴ってはじめて「極めたい」という言葉に説得力が伴う

「極めたい」という言葉は、行動が伴い、本気で何かを目指している人が使うことに違和感はない。

また、例え結果が伴っていなくとも、そこに向かって本気で行動しているのであれば、聞く側も気持ち悪さを感じないだろう。

だからこそ、なんでもかんでも「成長!」という言葉を使うのではなく、「極める」という言葉を意識することが望ましい。

そうすれば、必然的に「極める」という言葉なんて安易に口にできないし、行動が伴わないのに「成長したい」なんて軽はずみに言えないことに気付くだろう。

まとめ

自己成長したい!という人の気持ち悪さの正体は、「言っていることとやっていることが全然違う」ことだ。

それに対して私からの提案は2つ。

1つ目は安易に「自己成長」したいと言わないこと。2つ目はその代わりに「極める」という言葉を使うこと、である。

そうすれば、行動が伴わないのに「自己成長したい」と言って聞き手を不快にさせなくなる。

また、「極めたい」なんてそう簡単に言えるわけではない。だからこそ、行動が伴って本気で取り組んでいる時にこの言葉を使えば、相手も納得してくれるはずだ。

本当に成長したいと思っている人は、まわりに「成長したい」なんて吹き散らしたりしない。そんなことしている暇があったら、その時間を目標達成のために行動するだろう

だからこそ、極めたいという言葉を意識し、本当に達成したいことがあるならとことん行動しよう。

「成長したい!」なんて言わなくても、まわりの人はその行動をちゃんと見ててくれている。

そしてその行動を続ければ、誰かがあなたに言ってくれるだろう。

成長したね

と。

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