「読みたいことを、書けばいい。」
このようなシンプルで強烈なタイトルの本を読みました。元電通の田中泰延さんの処女作です。
読んだ感想は、、、

単純におもしろい!そして勉強になる!
でした。折に触れて何回も読みたくなる、超名作だと断言できます。
でも、あることが引っかかりました。
それは、書き方についての本と主張が似ている、でも何かが違うということです。
その書き方の本とは、認知科学者の苫米地英人氏の『人を動かす「超」書き方トレーニング』です。
この違和感は何なんだと思いました。
そこで、この記事ではこの違和感について自分なりにまとめてみました。
この記事を読むことで、両者の主張の共通点と相違点を知ることができるでしょう。ひいては、「書くこと、伝えること」を深く考えるきっかけになること間違いなしです。
なぜなら、両者の主張に相違点はあるものの、根本的には同じことを言っていたからです。
両者の共通点は「書くために重要なことは、徹底的に調べること」と強調されている点でした。
両者の主張の比較
まず、両者の主張を自分なりにざっくり解釈すると、次のようになります。
苫米地英人氏の主張
文章は2種類。
1.ビジネス文書は情報が大事
2.小説や詩は情緒(感情)が大事
ビジネス文書で言いたいことは、トゥールミンロジック(ディベートで用いられる考え方)でしっかり分析せよ。情緒を排除し、事実を積み重ねよ
田中泰延氏の主張
自分が読みたいこと、自分が読んで楽しいことを書けばいい
ただし、他人が既に書いていたら、自分が書かずにそれを読めばいい
読みたいことを知るためには、徹底的に調べよ。その上でそこに心象(感情)をのせよ
比較からなんとなく見えてくること
両者の主張を比較すると、共通項も多くありそうですね。
でも、根本から何か違いそうです。
苫米地氏は、ビジネス文書として捉え、相手ファーストの視点です。
一方で田中氏は、自分ファーストです。まず自分が楽しいか、を見極めています。
田中氏の主張の掘り下げ
他のどこかに書いてあるなら読み手でいろ
「自分ファースト」の視点で書けと言うと、「自分勝手で自己満足の文章になるのではないか」と思うかもしれません。
でも、そうではないことが、読めば分かります。
本書の中で田中氏は、
他のどこかに書いてあるなら読み手でいろ
巨人の方に乗れ
などと主張しており、「新しい発見」に価値を置いています。
しかし、これらを実践するにはかなり難しいと思います。
なぜなら、新しい発見をするためには、「何が新しいか」を知らないといけまけん。そのためには、過去の多くの文献や記事、意見を調べなければならないからです。
しかし、田中氏は、その新しさの発見する過程にこそ、楽しさを見出しているように思われます。
また、
他のどこかに書いているなら読者でいろ
という制約のもとで書かれた文章は、少なくとも他者への価値になりえます。
ということは、自分ファーストにも関わらず、他者の役に立っているということです。
役に立たない文章でも価値はある
とはいえ、新しい発見といっても、それが他者にとってつまらないものでもいいと、私は思います。
なぜなら、その新しい発見が誰かの役に立たないことだとしても、学問としての価値はあり、自分なりの満足があってもいいはずだからです。
まず、学問については、何かに役立つかは関係ありません。
何か新しい発見があれば、それは学問の発展につながるという意味で、役に立っていなくても、価値はあるのです。学問そのものが進むことという価値です。
自分なりの満足については、その人自身を喜ばせているという意味で、価値があります。他人の役に立たずとも、自分の役に立っているのです。
だから私は、田中氏の
「新しい発見」に価値を見出す
という視点に共感できます。
自分ファースト、ただし他者視点
話はそれましたが、田中氏は
「自分ファースト」を出発点にしているものの、それを書いて発信するにあたっては「他者」の視点を持つように説いていることが分かりました。
なぜなら、著書の中では
自分の内面を語る人はつまらない
とバッサリ切っており、「自分だけの目線」を否定しているからです。
例えばこの本では、
俺(私)、ブロッコリー大嫌い!
と語るだけではつまらないといいます。
たしかに、他人にとってはどうでもいいことでしょう。
でも、語る人が「自分語りそのもの」が好きだとしたらどうでしょうか。それを文章で書きまくれば、それこそ本のタイトルのような「読みたいことを書けばいい」になるのではないでしょうか。
しかし、そうではないと考えられます。
なぜなら、
ブロッコリー大嫌い!と言う人は、語ること(書いて伝えること)が好きなのであって、他人の話を聞くこと(読むこと・感じること)は好きとは限らない
からです。
そうであれば、田中氏が主張する
「読みたいことを、書けばいい。」
とは、
「読み手としての自分が読みたいもの」
を書くということであって、
「書き手として自分が書きたいこと」
を書くことではない
と思います。
だからこそ、本のタイトルを
「書きたいことを、書けばいい。」
ではなく
「読みたいことを、書けばいい。」
にしたのだと推測します。
実際、田中氏は
「自分の内面を語るつまらない人」にならないためには、「事象の強度が不可欠」だ
と述べています。
ここでいう事象とは、噛み砕くと、話のネタであり、主題です。言い換えると、感情や意見がない事実のことです。
この事象(事実)の強度を高めるための手段として、田中氏は徹底的に調べろ!と主張しています。
物書きは「調べる」が9割9分5厘6毛
とまで断言しているほどです。
苫米地氏の主張の掘り下げ

一方で苫米地氏は対照的です。苫米地氏は著書「人を動かす[超]書き方トレーニング」の中で、
文章はビジネス文書と娯楽の文書で書き方を分ける必要がある
ビジネス文書は情動(田中氏で言う心象)を混ぜてはいけない
と語っています。
苫米地氏は、読み手としての自分を設定しておらず、「他者ファースト」と述べているように受け取れます。
一方で田中氏は、著書の冒頭で
この本はビジネス本でも問題解決の本でもない
と書いていることから、苫米地氏と田中氏の主張は、前提から異なっていることが分かります。
苫米地氏はどちらかというと、ビジネス本(問題解決本)に近いことから、「他者ファースト」と言っているように思えました。
田中氏の主張は「自分起点の他者目線」
ここで、なぜ田中氏は自分起点の他者目線で書いているかを考えてみます。
それは、田中氏自身にエンターテイナー性があるからだと思います。また、田中氏自身が広告業界にいたのことも大きいでしょう。田中氏は、あの電通で活躍されていた方でした。
もちろん、一概には言えませんが、広告では事象というよりも、心象(感情)を動かすことが目的でしょう。
だからこそ、田中氏は「心象」を動かすことに重きを置いているように捉えられます。
おもしろいのが、その「心象」を動かすために、田中氏は「徹底的に事象を調べろ!」と主張していることです。
なぜなら、「事象を調べること」は「心象」と正反対のところにあると思われるからです。
この点について田中氏は、こう語っています。
「愛すべきことが見つかる」「愛すべきことをより調べる」というプロセスで、感動する。
これはつまり、心が動くということです。
なるほど、この点は非常におもしろいと思います。なぜなら、ただ単に「ブロッコリーは大嫌い!」と語るのではなく、
- ブロッコリーの歴史や現在の消費量
- なぜこんなにもブロッコリーが嫌いという子供が多いか
などの事象を調べることで、どこかで心が動くことを期待しているからです。
田中氏と苫米地氏の共通点と相違点
以上のことから、田中氏と苫米地氏は共通している部分があることが分かります。
それは、
徹底的に事実や事象を調べろ
ということです。
ただし、異なる点もありました。
共通点 | 異なる点(想定している文書形式) | |
田中氏 | 徹底的に調べろ | 事象+情緒(心象)=随筆 |
苫米地氏 | 徹底的に調べろ | 事象の積み上げ=分析による主張 |
田中氏は、その事象に情緒(心象)を加えた「随筆」を対象に語っています。
一方で苫米地氏は、その事象に情緒(心象)を一切載せずに述べる「主張」を対象にしています。
このように、2人とも別の土俵で語っているのです。
もちろん、田中氏が事実を積み上げるだけの書き物について語るとすれば、苫米地氏と同じようなことを言うかもしれません。
また、苫米地氏が事実と情緒(心象)の組み合わせの随筆について述べるとすれば、田中氏と似たことを言う可能性もあります。
ただ、ここで紹介した2人の著書では、その中で語る対象とした「文章の形式」が違っているにすぎません。
つまり、両者には共通点もあったけれど、異なる点もあったということです。
なるほど、これで僕が冒頭で感じた違和感が解消されました。
「両者の言っていることは似ている、でも何か違う」という違和感でしたが、その「何か」とは、
「随筆」を対象にしているか
「事実のみの積み重ねの主張」を対象にしているか
という違いだったのですね。
まとめ
いろいろ書いてきましたが、この記事を箇条書きでまとめることにします。
箇条書き的まとめ
・田中氏と苫米地氏の本を比べると、「似ているけど何か違う」という違和感をもった
・その正体は、両者が語る文章の対象が違うことからきている
共通点 | 異なる点(想定している文書形式) | |
田中氏 | 徹底的に調べろ | 事象+情緒(心象)=随筆 |
苫米地氏 | 徹底的に調べろ | 事象の積み上げ=分析による主張 |
・田中氏の対象は「事象+心象=随筆」、苫米地氏の対象は「事象の積み上げに=分析による主張」
・両者の共通点は「書くために重要なことは、徹底的に調べること」と主張していること
・徹底的に調べることで、新しい発見がある(事実も、心象も)
あとがき
田中氏、苫米地氏の本を再び読むことで、お二人の本がますます好きになりました。
そして何より、違和感がとれて、とてもスッキリしました。
自分なりに調べて考えることで、「新しい発見」をみつける経験ができたのかなと思います。
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